偽りの結婚生活~私と彼の6年間の軌跡 偽装結婚の男性は私の初恋の人でした

偽りの結婚生活~私と彼の6年間の軌跡 偽装結婚の男性は私の初恋の人でした

last updateDernière mise à jour : 2025-09-08
Par:  結城 芙由奈Complété
Langue: Japanese
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父親を亡くし、入院中の母を養っている私――須藤朱莉は、ある大手企業に中途採用された。けれどその実態は仮の結婚相手になる為の口実で、高校時代の初恋相手だった。 二度と好きになってはいけない人。 複雑に絡み合う人間関生活。そしてミステリアスに満ちた6年間の偽装結婚生活が始まった――

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Chapitre 1

エピソード 0 須藤朱莉の物語

 築30年の6畳一間に畳2畳分ほどの狭いキッチン。お風呂とトイレはついているけど、洗面台は無し。

そんな空間が『私』――須藤朱莉(すどうあかり)の城だった。

――7時

チーン

今朝も古くて狭いアパートの部屋に小さな仏壇の鐘の音が響く。

仏壇に飾られているのは7年前に病気で亡くなった朱莉の父親の遺影だった。

「お父さん、今日こそ書類選考が通るように見守っていてね」

仏壇に手を合わせていた朱莉は顔を上げた。

須藤朱莉 24歳。

今どきの若い女性には珍しく、パーマっ気も何も無い真っ黒のセミロングのストレートヘアを後ろで一本に結わえた髪。化粧も控えめで眼鏡も黒いフレームがやけに目立つ地味なデザイン。彼女の着ている上下のスーツも安物のリクルートスーツである。

しかし、じっくり見ると本来の彼女はとても美しい女性であることが分かる。

堀の深い顔は日本人離れをしている。それは彼女がイギリス人の祖父を持つクオーターだったからである。

そして黒いフレーム眼鏡は彼女の美貌を隠す為のカモフラージュであった。

「いただきます」

小さなテーブルに用意した、トーストにコーヒー、レタスとトマトのサラダ。朱莉の朝食はいつもシンプルだった。

手早く食事を済ませ、片付けをすると時刻は7時45分を指している。

「大変っ! 早く行かなくちゃ!」

玄関に3足だけ並べられた黒いヒールの無いパンプスを履き、戸締りをすると朱莉は急いで勤務先へ向かった。

****

 朱莉の勤務先は小さな缶詰工場だった。

そこで一般事務員として働いている。勤務時間は朝の8:30~17:30。電話応対から、勤怠管理、伝票の整理等、ありとあらゆる事務作業をこなしている。

「おはようございます」

プレハブで作られた事務所のドアを開けると、唯一の社員でこの会社社長の妻である片桐英子(55歳)が声をかけてきた。

「おはよう、須藤さん。実は今日は工場の方が人手が足りなくて回せないのよ。悪いけどそっちの勤務に入って貰えるかしら?」

「はい、分かりました」

朱莉は素直に返事をすると、すぐにロッカールームへと向かった。そこで作業着に着替え、ゴム手袋をはめ、帽子にマスクのいでたちで工場の作業場へと足を踏み入れた。

このように普段は事務員として働いていたのだが、人手が足りない時は工場の手伝いにも入っていたのである。

 この工場で働いているのは全員40歳以上の女性で既婚者もしくは独身者である。

朱莉のように若い従業員は居ないので、当然女性達からのやっかみもある。それ故わざと地味で目立たない姿をし、息を潜めるように日々の仕事をこなしていた。

――17時半

朱莉の退勤時間になった。

「すみません、お先に失礼します」

ロッカールームで手早く着替えを終わらせると、事務所にいる片桐英子に挨拶をした。

「あら、須藤さん。お疲れ様。今日も病院に面会に行くのかしら?」

「はい、母が楽しみにしていますので」

「それはそうよね。所でお母さんの具合はどうなの?」

「特に変わりはありません。小康状態を保っている感じです」

「あら、そうなのね……」

「でも、この間主治医の先生が母の病気に効果のある新薬が開発されたそうなので試してみてはいかがでしょうかと言われました」

「あら、そうなのね。その薬でお母さん良くなるといいわね」

「はい、ありがとうございます。では失礼します」

朱莉は職場を出たが、その表情は暗い。

(いくら新薬が出たからって今の私にはとても無理だよ……)

主治医が提案して来た新薬は驚く程高価なものだった。

朱莉の手取りは16万円でパート事務員なので当然ボーナスは無し。

家賃は5万5千円で、何より一番生活を圧迫しているのが、母親の入院費である。無理がたたり、長い間病気を患い、入院生活はもう3年になろうとしている。

母には内緒にしているのだが、朱莉は銀行から100万程の借金もしていた。

そんな状態ではとてもでは無いが新薬には手が出せない。

勤務先で後2万円ほど給料を上げて貰えればと思うのだが、所詮小さな町工場。

殆ど自転車操業並みに近いので、とてもでは無いが給料アップは望めない。

なので職場には内緒にしているのだが、給料も良い新しい勤務先を探していた。

けれど朱莉は大学を卒業どころか、高校を中退している。その為履歴書を送付した段階でいつも書類選考で落とされていたのだ。

 朱莉の父が健在だった頃は社長令嬢として蝶よ花よと何不自由ない暮らしで、学校も私立の名門の高校に通っていた。しかし父の病気により業績は悪化。そして父の死と共に降りかかってきたのは会社の倒産だったのだ。

そこでやむなく高校を中退し、その後は病弱な母と力を合わせて何とか生活していたのだが、働き過ぎで母はとうとう身体を壊してしまい、現在に至っているのである。

いっそのこと、夜の町で働いてみようかと思った事は何回もあったのだが、社長令嬢として育ってきた朱莉には怖くてその世界へ進めずにいた。

考え事をして歩いていると、いつの間にか母の病室の前に着いていた。

(いけない、こんな暗い顔していたらお母さんが心配しちゃう)

わざと笑みを作ると、個室のドアをノックした。

――コンコン

「朱莉ね?」

病室の中から母の声が聞こえた。

「お母さん。具合はどう?」

笑顔でベッドの母親へと近づく。

「そうね。今日は少しだけ体調がいいみたいよ」

青白く痩せこけた母が弱々しい笑みを浮かべた。

(また……。嘘ばっかり……!)

母の下手な嘘に思わず涙が滲みそうになるが、ぐっとこらえて朱莉は母に色々な話をした。

職場では皆に良くして貰えているとか、今年は臨時のボーナスが出そうだとか……全て口から出まかせであったが、少しでも母の笑顔が見たくて今夜も嘘を重ねていく。

「それじゃ、また明日ね。お母さん」

朱莉は母に挨拶をすると病室を出て溜息をついた。

(はあ……またお母さんに嘘ついちゃった……。お腹空いたな……。でもお給料前だから今夜はカップ麺かな……)

朱莉は暗い足取りで家路に着いたのだった――

****

アパートに帰ると郵便受けのA4サイズの封筒が入っていた。

「あれ……? 何だろう? この書類……あっ!」

封筒に書かれている社名を見て声を上げた。そこに書かれていた書類は1週間ほど前に履歴書を送った、ある大手の総合商社の社名が印字されていたのである。

「ま、まさかっ! 書類選考が通ったの!?」

急いで鋏で封を切って書類を取り出した。

『須藤朱莉様。この度は当社にご応募頂きまして、誠にありがとうございます。書類の一次選考が通りましたので、面接に進めさせて頂きたいと思います。つきましては下記の日程でご案内させて頂きますが、都合がつかない場合は改めてご連絡下さい。電話番号は……』

朱莉は興奮のあまり、声に出して書類を読み上げていた。

「う、嘘みたい……。初めて書類選考が通るなんて……。何でかなあ……。今までは学歴ではねられているとばかり思っていたけど。でも良かった! 始めて面接に進めるんだから頑張らなくちゃ!」

この時の朱莉は全く気が付いていなかった。この書類選考が通った本当の意味を。

そして自分の運命が大きく変わろうとしている事を――

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幸代
幸代
これから読んでみますわくわくしてます
2026-05-08 18:52:07
0
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WAN2
WAN2
5ー途中まで読みました。翔も明日香も自己中で、他人が傷つこうが自分達さえ良ければ良いって感じ。お似合いのカップル。でも、まだ明日香は自分が人を傷つけてる自覚はあるけど、翔は全く分かってないし、分かろうともしない。翔の方がタチが悪い。
2026-02-12 17:11:58
4
0
s h (shino)
s h (shino)
すごく、寝られた構成! 最終章ヒロインとヒーローのやり取り、泣いてしまいました!
2026-02-08 04:22:19
7
0
秋重恵美
秋重恵美
いゃ〜、面白かったです。
2025-12-14 20:47:30
8
0
minmin
minmin
非常に面白かった! 現在、本編のみ読了。しかも2日一気読み致しました。とてもよく練られているストーリーで主人公の健気さも素直さも好きでした。 そして、Theモブ男のわちゃわちゃコンビの一途さもコミカル且つ切なくて好きでした。 これからまだまだ続く番外編とスピンオフに気力体力金銭力つけで挑みます!
2025-09-04 18:10:33
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エピソード 0 須藤朱莉の物語
 築30年の6畳一間に畳2畳分ほどの狭いキッチン。お風呂とトイレはついているけど、洗面台は無し。そんな空間が『私』――須藤朱莉(すどうあかり)の城だった。――7時チーン今朝も古くて狭いアパートの部屋に小さな仏壇の鐘の音が響く。仏壇に飾られているのは7年前に病気で亡くなった朱莉の父親の遺影だった。「お父さん、今日こそ書類選考が通るように見守っていてね」仏壇に手を合わせていた朱莉は顔を上げた。須藤朱莉 24歳。今どきの若い女性には珍しく、パーマっ気も何も無い真っ黒のセミロングのストレートヘアを後ろで一本に結わえた髪。化粧も控えめで眼鏡も黒いフレームがやけに目立つ地味なデザイン。彼女の着ている上下のスーツも安物のリクルートスーツである。しかし、じっくり見ると本来の彼女はとても美しい女性であることが分かる。堀の深い顔は日本人離れをしている。それは彼女がイギリス人の祖父を持つクオーターだったからである。そして黒いフレーム眼鏡は彼女の美貌を隠す為のカモフラージュであった。「いただきます」小さなテーブルに用意した、トーストにコーヒー、レタスとトマトのサラダ。朱莉の朝食はいつもシンプルだった。手早く食事を済ませ、片付けをすると時刻は7時45分を指している。「大変っ! 早く行かなくちゃ!」玄関に3足だけ並べられた黒いヒールの無いパンプスを履き、戸締りをすると朱莉は急いで勤務先へ向かった。**** 朱莉の勤務先は小さな缶詰工場だった。そこで一般事務員として働いている。勤務時間は朝の8:30~17:30。電話応対から、勤怠管理、伝票の整理等、ありとあらゆる事務作業をこなしている。「おはようございます」プレハブで作られた事務所のドアを開けると、唯一の社員でこの会社社長の妻である片桐英子(55歳)が声をかけてきた。「おはよう、須藤さん。実は今日は工場の方が人手が足りなくて回せないのよ。悪いけどそっちの勤務に入って貰えるかしら?」「はい、分かりました」朱莉は素直に返事をすると、すぐにロッカールームへと向かった。そこで作業着に着替え、ゴム手袋をはめ、帽子にマスクのいでたちで工場の作業場へと足を踏み入れた。このように普段は事務員として働いていたのだが、人手が足りない時は工場の手伝いにも入っていたのである。 この工場で働いているのは全員40歳以
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エピソード 0-1 鳴海翔の物語
「おい、翔。書類選考が通った彼女達の履歴書だ。ここから最終面接をする人物を選ぶんだろう?」此処は日本でも10本の指に入る、東京港区にある大手企業『鳴海グループ総合商社』本社の社長室である。「ああ……。そうか、ありがとう琢磨。悪いな。嫌な仕事を頼んでしまって」前面大きなガラス張りの広々とした部屋に大きなデスク。そこに書類の山と格闘していた鳴海翔(26歳)が顔を上げた。「お前なあ…。本当に悪いと思っているならこんな真似よせよ。選ばれた女性が気の毒じゃないか」九条琢磨は溜息をつきながら鳴海翔に言った彼は翔の高校時代からの腐れ縁で、今は有能な秘書として必要な存在となっている。「仕方無いんだよ……。早く誰か結婚相手を見つけないと祖父が勝手にお見合い相手を連れて来るって言うんだからな。大体俺には愛する女性がいるのに……。」「まさに禁断の恋だもんな? お前と明日香ちゃんは。普通に考えれば絶対に許されない恋仲だ」琢磨はからかうような口ぶりで言う。「おい、琢磨! 誤解を招くような言い方をするなっ! 確かに俺達は兄妹の関係だが血の繋がりは一切無いんだからなっ!?」翔は机をバシンと叩きながら抗議する。「いや、分かってるって。そんな事くらい。だけど世間じゃ何と言うかな? いくら血の繋がりが無くたって、義理の兄妹が恋仲ですなんて知れたら、ゴシップ記者に追われて会社ごと足元を掬われるかもしれないぞ?」「ああ、そうだ。祖父も俺と明日香の関係に薄々気付いている。だから俺に見合いをするように迫ってきているんだ。考えても見ろよ。俺はまだ26だぞ? 結婚するには早すぎると思わないか?」「ふ~ん。だけど明日香ちゃんとは結婚したいくせに……」翔は苦虫を潰したような顔になる。「祖父も大分年だ……。それに長年癌も患っている。早くても後数年で引退するはずなんだ。その時が来たら誰にも文句は言わせない。俺は明日香と正式に結婚するよ」「そしてカモフラージュで結婚した女性を、あっさり捨てる気だろう?」琢磨は何処か憐憫を湛えた目でデスクの上に乗っている履歴書に目を落した。「おい、人聞きの悪い事を言う。言っておくが、結婚を決めた女性には事実をきちんと説明する。それに自分の人生を数年とは言え犠牲にして貰う訳だから、それなりに手当だって払うし、離婚する際はまとまった金額だって提示する。だか
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第1部 1-1 面接
 今日は【鳴海グループ総合商社】の面接の日だ。面接時間は10時からだが朱莉は気合を入れて朝の5時半に起床した。「面接でどんな事聞かれるか分からないからね……。ここの会社のHPでも見てみようかな?」朱莉はスマホをタップして【鳴海グループ総合商社】のHPを開いた。 HPに企業理念やグループ会社名、世界中にある拠点、取引先等様々な情報が載っている。これら全てを聞かれるはずは無いだろうが、生真面目な朱莉は重要そうな事柄を手帳に書き写していき、ある画面で手を止めた。 そこに掲載されているのは若き副社長の画像だったのだが……朱莉は名前と本人画像を見てアッと思った。「鳴海翔……鳴海先輩……」 思わず朱莉はその名前を口にしていた――****  話は朱莉がまだ高校生、16歳だった8年前に遡る。その頃はまだ父親は健在で、朱莉も社長令嬢として何不自由なく生活をしていた。高校は中高一貫教育の名門校として有名で、大学も併設されていた。朱莉は当時吹奏楽部に所属しており、鳴海翔も吹奏楽部所属で2人とも同じ楽器「ホルン」を担当していた。上手に吹く事が出来なかった朱莉によく居残りで特訓に付き合ってくれた彼だった。 背が高く、日本人離れした堀の深い顔は女子学生達からも人気の的だったのだが、異母妹の明日香が常に目を光らせてい…た為、女子学生達の誰もが翔に近付く事を許されなかったのである。 ただ、そんな中…楽器の居残り特訓で翔と2人きりになれた事があるのが、朱莉だったのである。「先輩……私の事覚えているかな? ううん、きっと忘れているに決まってるよね。だって私は1年の2学期で高校辞めちゃったんだし……」結局朱莉は高校には半年も通う事は出来なかった。高校中退後は昼間はコンビニ、夜はファミレスでバイト生活三昧の暮らしをしてきたのである。「せめて……1年間だけでも高校通いたかったな……」急遽学校をやめざるを得なくなり、翔にお世話になった挨拶も出来ずに高校を去って行ったのがずっと心残りだったのである。朱莉の憧れの先輩であり、初恋の相手。「もしこの会社に入れたら……一目だけでも会いたいな……」朱莉はポツリと呟いた。 ****「では須藤朱莉様。こちらの応接室で少々お待ちください」秘書の九条琢磨はチラリと朱莉を見た。(あ~あ……。可哀そうに……この女性があいつの犠牲になってしま
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1-2 契約
「あ、あの……この契約書に書かれている子供が出来た場合と言うのは……?」朱莉は声を震わせた。「何だ、そんな事いちいち君に説明しなければならないのか? 決まっているだろう? 俺と彼女との間に子供が出来た場合だ。当然、俺と彼女との結婚は周囲から認めて貰えていない。そんな状態で子供が出来たらまずいだろう? その為にも偽装妻が必要なんだよ」面倒臭そうに答える翔。偽装妻……この言葉はさらに朱莉を傷つけた。初恋で忘れられずにいた男性からこのような言葉を投げつけられるなんて……。しかも相手は履歴書でどこの高校に通っていたか、名前すら知っているというのに。(鳴海先輩……私の事まるきり覚えていなかったんだ……)悲しくて鼻の奥がツンとなって思わず涙が出そうになるのを数字を数えて必死に耐える。(大丈夫……大丈夫……。私はもっと辛い経験をしてきたのだから)「あの……社長と恋人との間に子供が出来た場合、出産するまでは外部との連絡を絶つ事とあるのは……」「ああ、そんなのは決まっているだろう。君が妊娠した事にして貰う為さ」翔は面倒臭いと言わんばかりに髪をかき上げる。(そ、そんな……!)朱莉はその言葉に絶望した。「社……社長! いくら何でもそれは無理過ぎるのではありませんか!?」思わず朱莉は大きな声をあげてしまった。「別に無理な事は無いだろう? 君がその間親しい人達と会いさえしなければいいんだ。直接会わなければ連絡を取り合ったって構わない。勿論その際は妊娠していないことがばれないようしてくれ。それは君の為でもあるんだ」翔の言葉を朱莉は信じられない思いで聞いていた。(本当に……本当に私の為なんですか……?)今、目の前にいるこの人は自分を1人の人間として見てくれていない。本当の彼は……こんなにも冷たい人だったのだろうか?一方の翔はまるで自分を責めるような目つきの朱莉をうんざりする思いで見ていた。(何なんだよ……この女は。だから破格の金額を提示してやってるのに……。それとももっと金が欲しいのか? 全く強欲な女だ)翔が軽蔑しきった目で自分を見ているのが良く分かった。この人と偽装結婚をすれば、お金に困る事は無いだろう。母にだって最新の治療を受けさせてあげる事が出来るのだ。この生活も長くても6年と言っていた。6年我慢すれば、その間に母だって具合が良くなって退院
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1-3 手続き
――翌朝 朱莉は暗い気分で布団から起き上がった。昨日は以前からお休みを貰う約束を勤め先の缶詰工場には伝えていたのだが、今朝は突然の休暇願に社長に電話越しに怒られてしまったのだ。結局母の体調が思わしくないので……と言うと、不承不承納得してくれたのだが……。「これで会社を辞めるって言ったら……どんな顔されるんだろう」溜息をつくと、着替えを済ませて洗濯をしながらトーストにミルク、サラダとシンプルな朝食を食べた。 洗濯物を干し終えて時計を見ると既に8時45分になろうとしている。「大変っ! 急がないと10時の約束に間に合わないかも!」朱莉は慌てて家を飛び出し、鳴海の会社に到着したのは9時50分だった。(よ、良かった……間に合った……)早速受付に行くと、朱莉と殆ど年齢が変わらない2人の女性が座っていた。「あの……須藤朱莉と申しますが……」そこから先は何と言おうと考えていると、受付の女性が笑顔を見せる。「はい、お話は伺っております。人材派遣会社の方ですね。今担当者をお呼びしますので少々お待ちください」受付嬢は電話を掛けた。(え? 人材派遣会社……? あ……ひょっとすると私の素性を知られるのを恐れて……?)受付嬢は電話を切ると朱莉に説明した。「5分程で担当の者が参りますので、あちらのソファでお掛けになってお待ち下さい」女性の示した先にはガラス張りのロビーの側にソファが並べられていた。朱莉は頭をさげると、ソファに座った。(素敵な会社だな……。大きくて、綺麗で……あの人たちのお給料はどれくらいなんだろう。きっと正社員で私よりもずっといいお給料貰っているんだろうな……)そう考えると、ますます自分が惨めに思えてきた。昨日の面接がまさか偽造結婚の相手を決める為の物だったとは。挙句に翔が朱莉に放った言葉。『そうでなければ……君のような人材に声をかけるはずはない』あの時の言葉が朱莉の中で蘇ってくる。そう、所詮このような大企業は朱莉のように学歴も無ければ、何の資格も持たない人間では所詮入社等出来るはずが無かったのだ。その時、昨日面接時に対応した時と同じ男性がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。「お待たせ致しました。須藤朱莉様。お話は社長の方から伺っております。では早速ご案内させいただきますね」「はい、よろしくお願いいたします」挨拶を交わすと琢磨
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1-4 退職
――その日の夜朱莉が質素な食事をしているとスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。手に取り、早速開いて文面を読む。「あ……」それは鳴海翔からのメッセージでは無く九条琢磨からだった。『今日はお疲れさまでした。婚姻届けが本日受理されましたのでただいまより須藤様の苗字が鳴海にかわりますので、どうぞよろしくお願いいたします。新しい印鑑は後程郵送させていただきます。引っ越し業者もこちらで手配いたしました。3日後に業者がそちらへ伺いますので荷造りの準備を始めておいて下さい。後、結婚指輪をお作りしますので指輪のサイズを教えていただけますか? よろしくお願いいたします』「ふう……」朱莉は溜息をついた。この人物は余程有能なのだろう。今日だけでこれ程の仕事をこなすのだから。恐らく一流大の高学歴に間違いは無い。「やっぱりこういう人が会社では必要とされるんだろうな……あれ? そう言えば……指輪のサイズって……? 困ったな……。指輪なんて一度もはめた事が無いからサイズが分からないし……そうだ、調べてみよう」スマホをタップして、指輪のサイズの測り方を検索してみた。「へえ~。細い紙とセロハンテープがいるのね」早速セロハンテープと付箋を用意し、測ってみたところ朱莉の指輪サイズは7号だった。「7号か……。覚えておこっと」早速スマホにメッセージを打ち込んだ。『こんばんは。本日は色々とお世話になりました。引っ越し業者の件、どうもありがとうございました。明日、ここのアパートの解約をしてきます。指輪のサイズですが、今計測したところ7号でした。どうぞよろしくお願いいたします』(明日は会社に結婚した事と、仕事をやめる事を伝えなくちゃ……)朱莉は貰ったマンションのパンフレットを見た。港区六本木にある高級住宅マンション……いや、恐らく億ション。現在朱莉が住んでいるのは葛飾区の地区30年の古い賃貸アパート。そして職場はここから徒歩20分の缶詰工場。とても通勤出来る距離では無い。それに、これからは毎月150万ずつ振り込まれるのだ。日々の買い物はセレブだけが持つ事の許される「ブラックカード」もう一月16万円のパートをする必要は何処にもない。だけど……。「私が辞めると……困るかなあ……?」朱莉は溜息をついた―― 翌朝――「おはようございます。昨日は突然仕事をお休みしてしまい、申し訳ご
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1-5 上を向いて
「おい、琢磨。お前……何勝手に結婚指輪なんて頼んでるんだよ」翌朝、社長室に現れた琢磨に翔はいきなり乱暴に指輪のカタログを投げつけてきた。「おい! 翔! いきなり何するんだよ!」琢磨は咄嗟に手で受け取った。「それはこっちの台詞だ! 誰がいつ結婚指輪を用意しろって言った? どんなデザインがよろしいでしょうか? って、いきなり宝石店の店長がメールを入れてきた時には驚いたぞ! しかもその後、そこの社員が受付嬢に俺にこのカタログを渡してくださいと置いて行ったんだからな!?」その言葉を聞いて琢磨の表情は凍り付いてしまった。「な……何だって? 翔……お前、今何て言った?」「だから、何故結婚指輪が必要なんだよ? そんなものがあったら相手が勘違いするだろう? 本当に俺の妻になったんじゃないかって!」「勘違いも何も書類上はお前と須藤さんはもう夫婦だろうが! 結婚式も無しの婚姻届けだけ。一緒に暮らす事も無く、その上結婚指輪まで渡さないつもりだったのか!?」琢磨のあまりの激高ぶりに流石の翔も異変を感じ、声のトーンを落とた。「お、おい……落ち着けよ。俺は別に本当に指輪など必要無いと思ったからだ。大体、あの女を見ただろう? 化粧っ気も無く、アクセサリーの類も何もしていなかった。だから指輪なんか必要無いと思ったんだよ」宥めるように琢磨に言うが、逆に翔の言葉は琢磨の怒りを増幅させただけだった。「何!? お前は結婚指輪をただのアクセサリーのように考えているのか!? 結婚指輪の意味はな……永遠に途切れることのない愛情を意味してるんだよ! 確かにお前と須藤さんは6年間の書類上の夫婦だけになるだろうが、もう少し彼女を尊重してもいいんじゃないのか? 優しくしてやろうとかは思わないのかよ!」「それは……無理だな。俺が愛する女性は明日香ただ1人なんだから。それに無駄に優しくしてあの女が俺に本気になったらどうするんだ? 俺に過剰に愛情を要求し出したり、6年後絶対に別れたくないと言って裁判でも起こされたら? いや、そもそも祖父の引退の状況によっては6年も経たないうちに離婚する事になるかもしれないのに。だから、あの女に必要以上に接触しないのは……むしろ、俺なりの……愛情のつもりだ」「……詭弁だな。それは」琢磨は憐みの目で翔を見た。「何とでも言え。俺は結婚指輪をつけるつもりはない。あの
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1-6 引っ越し
 今日は朱莉が葛飾区のアパートから六本木の億ションに引っ越しをする日である。全ての梱包作業を終え、不動産業者の賃貸状況の査定も何とか敷金で賄えて、追加料金を取られる事も無かった。後はこれで引っ越し業者がやって来るのを待つだけ。今迄自分で使っていた家具や家電は全て処分してしまったので部屋に置かれている荷物は段ボール10箱ばかりにしか満たなかった。朱莉がこの部屋で使用していた家具、家電はどれも1人用の小さな物ばかりで、逆に持っていけば邪魔になるような物ばかりだったからである。「新しい家に着いたら家具を買いに行かなくちゃ」朱莉はぽつりと呟いた。 引っ越し期間があまりにも短すぎた為に結局朱莉はこれから引っ越す億ションの内覧すらしていなかった。なのでどんな家具を買えば良いのかも一切分からず、翔から預かったブラックカードはまだ一度も使った事が無い。がらんとした床に座りながら朱莉は3年間暮らしてきたアパートを改めて見渡した。初めてここに引っ越してきた時は、あまりに狭く、古い造りの部屋に気分が滅入ってしまったが、日当たりが良く、冬でも部屋干しにしていても洗濯物が乾く所が気に入っていた。「住んでいる時はすごく狭い部屋だと思っていたのに……こうしてみると広く見えるものなんだ……」その時、呼び鈴が鳴った。「はい」玄関を開けると引っ越し業者の人達がぞろぞろと現れたので朱莉は面食らってしまった。(ちょっと……一体何人でやってきたの!?)数えると7名もの人数で現れたので、朱莉はすっかり仰天してしまった。一方の引っ越し業者の方も朱莉の荷物の少なさに面食らっている。「あ……あの……引っ越しのお荷物は……?」一番の年長者の男性が朱莉に尋ねてきた。「あの……お恥ずかしい話ですが、段ボール箱……だけなんです……」朱莉は顔を赤くして俯いた。(ああ……恥ずかしい! こんな事なら九条さんに引っ越しの件で連絡を入れれば良かったかも……。でも九条さんも忙しい方だし、私が引っ越し業者に依頼するべきだったんだ……)「申し訳ございません。私からきちんとお話するべきでした」申し訳ない気持ちで一杯になった朱莉は何度も頭を下げるので、かえって引っ越し業者は恐縮する羽目になったのであった。その後、引っ越し業者のトラックを見送った朱莉はマンションの住所を頼に、電車に乗って新しく済む億シ
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1-7 呼び出し
その夜――21時 朱莉は1人で、億ションの広々とした部屋でベッドの上に丸まって眠っていた。初めはまるで巨大スクリーンに映し出されたかのような夜景に目を見張り、暫く見惚れていたのだが、この億ションはあまりにも広すぎた。朱莉は空しさを感じてしまい、まだ寝るには早すぎる時間なのに、そうそうにベッドに入っていたのである。 朱莉の今使用しているベッドは外国製の大型ベッドで寝心地は最高だった。この家具は、やり手秘書の九条が家具・家電を買いそろえる時間が朱莉には無いと思い、気を利かせて事前に全て買い揃え、部屋にセッティングしてくれていたのである。家具はどれも素敵なデザインばかりで、家電もとても使い勝手が良い物ばかりであった。だがそのどれもが自分で選んだものでは無かったので、ますますここが自分の新居とは思えずにいたのだ。(九条さんは良かれと思って用意してくれていたんだろうけど、出来れば少しくらいは自分で家具を見たかったな……。だけど私のような庶民が選んだ家具だといくら一緒に暮らさないとは言え、時々ここでお客様の接待があるならそれなりの家具じゃないと鳴海先輩に恥をかかせちゃうものね……) こうして1人で場違いなところにいると、何故だか無性に孤独を感じる。あの狭くて古かったけど、日当たりの良かった自分の賃貸アパートが懐かしい。あそこは全て朱莉が1人で選んだものばかりで、まさしく自分1人の城だったのだ。だけど、ここはまるきり自分の家とは思えない。6年経てば出て行かなければならない仮初の自分の住処。いや、状況によってはもっと早めにここを出て行く事になるかもしれない。その為に1年ごと結婚生活の更新と言う形になっているのだ。(今頃鳴海先輩は……この下の階の部屋で明日香さんと過ごしているのかな……?) 防音設備があまりにも整い過ぎているのか、物音ひとつ響いてこないだだっ広い部屋にベッドの中で身じろぎするシーツの音と、朱莉の溜息だけが聞こえるのみだった――****――同時刻 ここはとある高級ショットバー。九条は1人、カウンターでシェリートニックを飲んでいた。「悪い、遅くなったな」そこへ鳴海翔が現れた。「遅い、お前……どれだけ俺を待たせる気だ」仏頂面で九条は鳴海をジロリと睨み付けた。「仕方が無いだろう? 明日香の奴が中々解放してくれないものだから……」「チッ! の
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1-8 突然の来訪者
――翌朝 ピンポーン 午前10時。朱莉が引っ越しの荷物の荷解きをしていると玄関からチャイムが鳴った「え……? 誰だろう? 私の所にお客さんなんて……」(鳴海先輩のはずは無いし……九条さんかな?)インターホンの使い方が朱莉には分からなかったので、急いで玄関に向かってドアを開けると、そこには長い髪を茶髪に染めた、スレンダーな美女が立っていた。清楚なワンピースに身を包んだ彼女は正にセレブの姿だ。「貴女ね……? 翔の書類だけの結婚相手は?」じろりと睨み付けるように朱莉を見るその姿は――(明日香先輩!)朱莉にはすぐに彼女の事が分かった。「ふ~ん……。私達の住んでる部屋と殆ど変わらないわね?」明日香は『私達』をわざと強調するかのように値踏みしながら辺りをキョロキョロと見渡すと上がり込んできた。「え~と……。須藤朱莉さん……だったかしら? いずれ貴女がお役御免になったら、この部屋に私と翔が一緒に暮らすのだから、あまり汚さないように気を付けて使ってちょうだいよね。この億ションは私達の持家だけど、下の億ションは賃貸なんだから」明日香は応接室に入るとソファに座る。「はい、分かりました。気を付けて使うようにしますね」朱莉は俯きながら返事をした。(そうか……先輩達は将来この家で夫婦として暮らすのね……)「全く……それにしても地味な女ね。でも辺に見栄えがする女じゃ無くてある意味良かったわ。勘違いして私の翔を誘惑する事も無さそうだしね」この家の主人のように腕組みをしてソファに座る明日香は正に女王様のようにも見えた。「そ、そんな……私は決して鳴海さんの事を誘惑しようとは考えてもいません」慌てて顔を上げて朱莉が言うと、明日香は何処か小馬鹿にしたかのように笑みを浮かべる。「あら、嫌だ。冗談で言ったのに……まさか本気にしちゃった訳? 大体貴女みたいな地味女を翔が見向きするはずないじゃないの」「はい、仰る通りです。明日香さんは本当にお綺麗ですから……」「あら、意外と素直に認めるのね。所でお茶の一杯も出ないのかしら? この家では?」明日香の言葉に朱莉は真っ赤になった。「す、すみません……。まだ引っ越しの荷解きが終わっていないのと……じ、実は給湯器の使い方が分からなくて……」「あら、嫌だ。貴女、そんな事も知らなくて引っ越しして来たの? それじゃ昨夜食事は
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