父親を亡くし、入院中の母を養っている私――須藤朱莉は、ある大手企業に中途採用された。けれどその実態は仮の結婚相手になる為の口実で、高校時代の初恋相手だった。 二度と好きになってはいけない人。 複雑に絡み合う人間関生活。そしてミステリアスに満ちた6年間の偽装結婚生活が始まった――
View More築30年の6畳一間に畳2畳分ほどの狭いキッチン。お風呂とトイレはついているけど、洗面台は無し。
そんな空間が『私』――須藤朱莉(すどうあかり)の城だった。――7時
チーン
今朝も古くて狭いアパートの部屋に小さな仏壇の鐘の音が響く。 仏壇に飾られているのは7年前に病気で亡くなった朱莉の父親の遺影だった。「お父さん、今日こそ書類選考が通るように見守っていてね」
仏壇に手を合わせていた朱莉は顔を上げた。
須藤朱莉 24歳。
今どきの若い女性には珍しく、パーマっ気も何も無い真っ黒のセミロングのストレートヘアを後ろで一本に結わえた髪。化粧も控えめで眼鏡も黒いフレームがやけに目立つ地味なデザイン。彼女の着ている上下のスーツも安物のリクルートスーツである。 しかし、じっくり見ると本来の彼女はとても美しい女性であることが分かる。 堀の深い顔は日本人離れをしている。それは彼女がイギリス人の祖父を持つクオーターだったからである。 そして黒いフレーム眼鏡は彼女の美貌を隠す為のカモフラージュであった。「いただきます」
小さなテーブルに用意した、トーストにコーヒー、レタスとトマトのサラダ。朱莉の朝食はいつもシンプルだった。
手早く食事を済ませ、片付けをすると時刻は7時45分を指している。「大変っ! 早く行かなくちゃ!」
玄関に3足だけ並べられた黒いヒールの無いパンプスを履き、戸締りをすると朱莉は急いで勤務先へ向かった。****
朱莉の勤務先は小さな缶詰工場だった。
そこで一般事務員として働いている。勤務時間は朝の8:30~17:30。電話応対から、勤怠管理、伝票の整理等、ありとあらゆる事務作業をこなしている。「おはようございます」
プレハブで作られた事務所のドアを開けると、唯一の社員でこの会社社長の妻である片桐英子(55歳)が声をかけてきた。
「おはよう、須藤さん。実は今日は工場の方が人手が足りなくて回せないのよ。悪いけどそっちの勤務に入って貰えるかしら?」
「はい、分かりました」
朱莉は素直に返事をすると、すぐにロッカールームへと向かった。そこで作業着に着替え、ゴム手袋をはめ、帽子にマスクのいでたちで工場の作業場へと足を踏み入れた。
このように普段は事務員として働いていたのだが、人手が足りない時は工場の手伝いにも入っていたのである。この工場で働いているのは全員40歳以上の女性で既婚者もしくは独身者である。
朱莉のように若い従業員は居ないので、当然女性達からのやっかみもある。それ故わざと地味で目立たない姿をし、息を潜めるように日々の仕事をこなしていた。 ――17時半 朱莉の退勤時間になった。「すみません、お先に失礼します」
ロッカールームで手早く着替えを終わらせると、事務所にいる片桐英子に挨拶をした。
「あら、須藤さん。お疲れ様。今日も病院に面会に行くのかしら?」
「はい、母が楽しみにしていますので」
「それはそうよね。所でお母さんの具合はどうなの?」
「特に変わりはありません。小康状態を保っている感じです」
「あら、そうなのね……」
「でも、この間主治医の先生が母の病気に効果のある新薬が開発されたそうなので試してみてはいかがでしょうかと言われました」
「あら、そうなのね。その薬でお母さん良くなるといいわね」
「はい、ありがとうございます。では失礼します」
朱莉は職場を出たが、その表情は暗い。
(いくら新薬が出たからって今の私にはとても無理だよ……)
主治医が提案して来た新薬は驚く程高価なものだった。
朱莉の手取りは16万円でパート事務員なので当然ボーナスは無し。 家賃は5万5千円で、何より一番生活を圧迫しているのが、母親の入院費である。無理がたたり、長い間病気を患い、入院生活はもう3年になろうとしている。母には内緒にしているのだが、朱莉は銀行から100万程の借金もしていた。
そんな状態ではとてもでは無いが新薬には手が出せない。 勤務先で後2万円ほど給料を上げて貰えればと思うのだが、所詮小さな町工場。 殆ど自転車操業並みに近いので、とてもでは無いが給料アップは望めない。なので職場には内緒にしているのだが、給料も良い新しい勤務先を探していた。
けれど朱莉は大学を卒業どころか、高校を中退している。その為履歴書を送付した段階でいつも書類選考で落とされていたのだ。
朱莉の父が健在だった頃は社長令嬢として蝶よ花よと何不自由ない暮らしで、学校も私立の名門の高校に通っていた。しかし父の病気により業績は悪化。そして父の死と共に降りかかってきたのは会社の倒産だったのだ。
そこでやむなく高校を中退し、その後は病弱な母と力を合わせて何とか生活していたのだが、働き過ぎで母はとうとう身体を壊してしまい、現在に至っているのである。 いっそのこと、夜の町で働いてみようかと思った事は何回もあったのだが、社長令嬢として育ってきた朱莉には怖くてその世界へ進めずにいた。 考え事をして歩いていると、いつの間にか母の病室の前に着いていた。(いけない、こんな暗い顔していたらお母さんが心配しちゃう)
わざと笑みを作ると、個室のドアをノックした。
――コンコン
「朱莉ね?」
病室の中から母の声が聞こえた。
「お母さん。具合はどう?」
笑顔でベッドの母親へと近づく。
「そうね。今日は少しだけ体調がいいみたいよ」
青白く痩せこけた母が弱々しい笑みを浮かべた。
(また……。嘘ばっかり……!) 母の下手な嘘に思わず涙が滲みそうになるが、ぐっとこらえて朱莉は母に色々な話をした。 職場では皆に良くして貰えているとか、今年は臨時のボーナスが出そうだとか……全て口から出まかせであったが、少しでも母の笑顔が見たくて今夜も嘘を重ねていく。「それじゃ、また明日ね。お母さん」
朱莉は母に挨拶をすると病室を出て溜息をついた。
(はあ……またお母さんに嘘ついちゃった……。お腹空いたな……。でもお給料前だから今夜はカップ麺かな……)朱莉は暗い足取りで家路に着いたのだった――
****
アパートに帰ると郵便受けのA4サイズの封筒が入っていた。「あれ……? 何だろう? この書類……あっ!」
封筒に書かれている社名を見て声を上げた。そこに書かれていた書類は1週間ほど前に履歴書を送った、ある大手の総合商社の社名が印字されていたのである。
「ま、まさかっ! 書類選考が通ったの!?」
急いで鋏で封を切って書類を取り出した。
『須藤朱莉様。この度は当社にご応募頂きまして、誠にありがとうございます。書類の一次選考が通りましたので、面接に進めさせて頂きたいと思います。つきましては下記の日程でご案内させて頂きますが、都合がつかない場合は改めてご連絡下さい。電話番号は……』
朱莉は興奮のあまり、声に出して書類を読み上げていた。
「う、嘘みたい……。初めて書類選考が通るなんて……。何でかなあ……。今までは学歴ではねられているとばかり思っていたけど。でも良かった! 始めて面接に進めるんだから頑張らなくちゃ!」
この時の朱莉は全く気が付いていなかった。この書類選考が通った本当の意味を。そして自分の運命が大きく変わろうとしている事を――
朝食を食べ終わり、片付けをしていると今度は朱莉の個人用スマホに電話がかかってきた。それは琢磨からであった。昨夜琢磨と互いのプライベートな電話番号とメールアドレスを交換したのである。「はい、もしもし」『おはよう、朱莉さん。翔から何か連絡はあったかい?』「はい、ありました。突然ですけど明日帰国してくるそうですね」『ああ、そうなんだ。俺の所にもそう言って来たよ。それで明日香ちゃんの為に俺にも空港に来てくれと言ってきたんだ。……当然朱莉さんは行くんだろう?』「はい、勿論行きます」『車で行くんだよね?』「はい、九条さんも車で行くのですね」『それが聞いてくれよ。翔から言われたんだ。車で来て欲しいけど、俺に運転しないでくれと言ってるんだ。仕方ないから帰りだけ代行運転手を頼んだんだよ。全く……いつまでも俺のことを自分の秘書扱いして……!』苦々し気に言う琢磨。それを聞いて朱莉は思った。(だけど九条さんも人がいいのよね。何だかんだ言っても、いつも翔先輩の言うことを聞いてあげているんだから)朱莉の思う通り、琢磨自身が未だに自分が翔の秘書の様な感覚が抜けきっていないのも事実である。それ故、多少無理難題を押し付けられても、つい言いなりになってしまうことに琢磨自身は気が付いていなかった。「でも、どうしてなんでしょうね? 九条さんに運転をさせないなんて」朱莉は不思議に思って尋ねた。『それはね、全て明日香ちゃんの為さ。明日香ちゃんは自分がまだ高校2年生だと思っているんだ。その状態で俺が車を運転する訳にはいかないんだろう。全く……せめて明日香ちゃんが自分のことを高3だと思ってくれていれば、在学中に免許を取ったと説明して運転出来たのに……』琢磨のその話がおかしくて、朱莉はクスリと笑ってしまった。「でもその場に私が現れたら、きっと変に思われますよね? 明日香さんには私のこと何て説明しているのでしょう?」『……』何故かそこで一度琢磨の声が途切れた。「どうしたのですか? 九条さん」『朱莉さん……君は何も聞かされていないのかい?』「え……?」『くそ! 翔の奴め……いつもいつも肝心なことを朱莉さんに説明しないで……!』「え? どういうことですか?」(何だろう……何か嫌な胸騒ぎがする)『俺も今朝聞いたばかりなんだよ。翔は現地で臨時にアルバイトとして女子大生と
「それじゃ、朱莉さん。次は翔から何か言ってくるかもしれないけど、くれぐれもアイツの滅茶苦茶な要求には答えたら駄目だからな?」タクシーに乗り込む直前の朱莉に琢磨は念を押した。「九条さんは随分心配性なんですね。私なら大丈夫ですから」朱莉は笑みを浮かべた。「もし翔から契約内容を変更したいと言ってきたら……そうだな。まずは俺に相談してから決めると返事をすればいい」するとタクシー運転手が話しかけてきた。「すみません。後が詰まってるので……出発させて貰いたいのですが……」「あ! すみません!」琢磨は慌ててタクシーから離れると、朱莉が乗り込んだ。車内で朱莉が琢磨に頭を下げる姿が見えたので、琢磨は手を振るとタクシーは走り去って行った。「ふう……」タクシーの後姿を見届けると、琢磨はスマホを取り出して、電話をかけた。「もしもし……はい。そうです。今別れた所です。……ええ。きちんと伝えましたよ。……後はお任せします。え? ……いいのかって? ……あなたなら何とかしてくれるでしょう? それだけの力があるのですから。……失礼します」そして電話を切ると、夜空を見上げた。「雨になりそうだな……」**** 翌朝――6時朱莉はベッドの中で目を覚ました。昨夜は琢磨から聞いた翔の伝言で頭がいっぱいで、まともに眠ることが出来なかった。寝不足でぼんやりする頭で起きて、着替えをするとカーテンを開けた。「あ……雨……。どうりで薄暗いと思った……」今日は朱莉の車が沖縄から届く日になっている。車が届いたら朱莉は新生児に効かせる為のCDを買いに行こうと思っていた。これから複雑な環境の中で育っていく子供だ。せめて綺麗な音楽に触れて、情操教育を養ってあげたいと朱莉は考えていた。洗濯物を回しながら朝食の準備をしていると、翔との連絡用のスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。(まさか、翔先輩!?)朱莉はすぐに料理の手を止め、スマホを見るとやはり翔からのメッセージだった。今朝は一体どんな内容が書かれているのだろう? 翔からの連絡は嬉しさの反面、怖さも感じる。好きな人からの連絡なのだから嬉しい気持ちは確かにあるのだが問題はその中身である。大抵翔からのメールは朱莉の心を深く傷つける内容が殆どを占めている。(やっぱり契約内容の変更についてなのかなあ……)朱莉はスマホをタップした。『おは
「本当はこんなこと、朱莉さんに言いたくは無かった。だが翔が仮に今の話を直接朱莉さんに話したとしたら? 恐らく翔のことだ。きっと再び朱莉さんを傷付けるような言い方をして、挙句の果てに、これは命令だとか、ビジネスだ等と言って強引に再契約を結ばせるつもりに違いない。だがそんなこと、絶対に俺はさせない。無期限に朱莉さんを縛り付けるなんて絶対にあってはいけないんだ」琢磨は顔を歪めた。(え……無期限に明日香さんの子供の面倒を? それってつまり偽装婚も無期限ってこと……?)なので朱莉は琢磨に尋ねた。「あの……それってつまり翔さんは私との偽装結婚を無期限にする……ということでもあるのですよね?」(そうしたら、私……もう少しだけ翔先輩と関わっていけるってことなのかな?)しかし、次の瞬間朱莉の淡い期待は打ち砕かれることになる。「いや、翔の言いたいことはそうじゃないんだ。当初の予定通り偽装婚は残り3年半だけども子育てに関しては明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで続けて貰いたいってことなんだよ」「え……?」「つまり、翔は3年半後には契約通りに朱莉さんと離婚して、子供だけは朱莉さんに引き続き面倒を見させる。しかも明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで、無期限にだ。こんな虫のいい話あり得ると思うかい?」「……」朱莉はすっかり気落ちしてしまった。(やっぱり……ほんの少しでも翔先輩から愛情を分けて貰うのは所詮叶わないことなの? でも……)「九条さん」朱莉は顔を上げた。「何だい」「私、明日香さんと翔さんの赤ちゃんを今からお迎えするの、本当に楽しみにしてるんです。例え自分が産んだ子供で無くても、可愛い赤ちゃんとあの部屋で一緒に暮らすことが待ちきれなくて……」「朱莉さん……」「九条さん。もし、子供が3歳になっても明日香さんが記憶を取り戻せなかった場合は、翔さんは私に引き続き子供を育てて欲しいって言ってるわけですよね? それって……翔さんは記憶の戻っていない明日香さんにお子さんを会わせてしまった場合、お互いにとって精神面に悪影響が出るのではと苦慮して私に預かって貰いたいと思っているのではないでしょうか? だって、考えても見てください。ただでさえ10年分の記憶が抜けて自分は高校生だと信じて疑わない明日香さんに貴女の産んだ子供ですと言って対面させた場合、明日香さんが正常でいられると
明日香が10年分の記憶を失い、高校生だと思い込んでいる話は朱莉にとってあまりにもショッキングな話であった。「朱莉さん、大丈夫かい? 顔色が真っ青だ」「は、はい。大丈夫です。でもそうなると今一番大変なのは翔先輩ではありませんか?」朱莉は翔のことが心配でならなかった。あれ程明日香を溺愛しているのだ。17歳の時、翔と明日香は交際していたのだろうか? ただ、少なくとも朱莉が入学した当時の2人は交際しているように見えた。「朱莉さん、翔が心配かい?」琢磨が少し悲し気な表情で尋ねてきた。「はい、とても心配です。勿論一番心配なのは明日香さんですけど」「やっぱり朱莉さんは優しい人なんだね」(あの2人に今迄散々蔑ろにされてきたのに……それらを全て許して今は2人をこんなに気に掛けて……)「何故翔さんは九条さんに連絡を入れてきたのですか? それに、どうして九条さんから私に説明することになったのでしょう?」朱莉は琢磨の瞳をじっと見つめた。「俺も、2日前に翔から突然メッセージが届いたんだよ。あの時は驚いた。翔と決別した時に、アイツはこう言ったんだよ。互いに二度と連絡を取り合うのをやめにしようと。こちらとしてはそんなつもりは最初から無かったけど、翔がそこまで言うのならと思って自分から二度と連絡するつもりは無かったんだ。それなのに突然……」そして、琢磨は近くを通りかかった店員に追加でマティーニを注文すると朱莉に尋ねた。「朱莉さんはどうする?」「それでは私はアルコール度数が低めのお酒で」「それなら、『ミモザ』なんてどうかな? シャンパンをオレンジジュースで割った飲み物だよ。アルコール度数も8度前後で、他のカクテルに比べると度数が低い」琢磨はメニュー表を見ながら朱莉に言った。「はい、ではそちらを頂きます」「かしこまりました」店員は頭を下げると、その場を立ち去っていく。すると琢磨が再び口を開いた。「明日香ちゃんは自分を高校生だと思い込んでいるから、当然翔の隣にはいつも俺がいるものだと思い込んでいるらしいんだ。考えてみればあの頃の俺達はずっと3人で一緒に高校生活を過ごしてきたようなものだからね。それで明日香ちゃんが目を覚ました時、翔に俺のことを聞いてきたらしい。『琢磨は何処にいるの?』って。それで一計を案じた翔が明日香ちゃんを安心させる為に、もう一度3人で会いた
「九条さんが【ラージウェアハウス】の新社長に就任した話はニュースで知ったんです。あの時九条さん言ってましたよね? 鳴海グループにも負けない程のブランド企業にするって」「ああ、あの話か……。あれは……まあもう1人の社長にああいうふうに言えって半ば命令されたからさ。自分の意思で言った訳じゃ無いが正直、気分は良かったな」琢磨は笑みを浮かべる。「あの翔に一泡吹かせることが出来たみたいだし。初めはテレビインタビューなんて御免だと思ったけどね。大分、翔の奴は慌てたらしい」朱莉もカクテルを飲むと琢磨を見た。「え? その話は誰から聞いたんですか?」「会長だよ」琢磨の意外な答えに朱莉は驚いた。「九条さんは会長と個人的に連絡を取り合っていたのですか?」「ああ、そうだよ。実は以前から会長に秘書にならないかと誘われていたんだ。でも俺は翔の秘書だったから断っていたんだけどね」「そうだったんですか」あまりにも驚く話ばかりで朱莉の頭はついていくのがやっとだった。「それにしても朱莉さんも随分雰囲気が変わったよね? 前よりは積極的になったようだし、お酒も飲めるようになってきた。……ひょっとして沖縄で何かあったのかい?」琢磨の質問に朱莉は一瞬迷ったが、決めた。(九条さんだって話をしてくれたのだから、私も航君のこと、話さなくちゃ)「実は……」朱莉は沖縄での航との出会い、そして別れまでを話した。もっとも名前を明かす事はしなかったが。一方の琢磨は朱莉の話を呆然と聞いていた。(まさか朱莉さんが男と同居していたなんて。しかもあんなに頬を染めて嬉しそうに話してくるってことは……その男、朱莉さんに取って特別な存在だったのか?)朱莉が沖縄で男性と同居をしていた……その事実はあまりに衝撃的で、琢磨の心を大きく揺さぶった。「それでその彼とは東京へ戻ってからは音信不通……ってことなのかい?」内心の動揺を隠しながら琢磨は尋ねた。「はい。そうです。だから条さんとは連絡が取れて嬉しかったです。ありがとうございました」お酒でうっすら赤く染まった頬ではにかみながら琢磨にお礼を言う朱莉の姿は琢磨の心を大きく揺さぶった。「そ、そんな笑顔で喜んでくれるなんて思いもしなかったよ。でも……そうか。朱莉さんが以前よりお酒を飲めるようになったのはその彼のお陰なんだね?」「そうですね……。きっとそう
食後――2人の前には今はアルコールだけが置かれている。朱莉のテーブルにはサングリア。琢磨の前にはマンハッタンが置かれいる。美しい夜景が見えるガラス窓にはその光景に見惚れている朱莉の姿が映っている。「朱莉さん」「はい、何でしょうか?」「すまなかった」振り向き、返事をする朱莉に琢磨は頭を下げた。「九条さん……」「沖縄から帰った後、黙って朱莉さんの前から消えて連絡も取れないようにしてしまったこと、本当に申し訳ないと思ってるんだ。ずっと謝りたかった。朱莉さんと会って話がしたいと思っていたんだ」「九条さんは、無責任に黙って姿を消すような人では無いと思っています。何か深い事情があったんですよね?」「そうだ。けど……いくら事情があったって、勝手にいなくなって本当に酷いことをしたと思っている。知り合いもいない沖縄に1人残して。本当のことを言えば……あのとき、一緒に東京へ朱莉さんを連れ帰りたかった」朱莉の目をじっと見つめる琢磨。「九条さん…」琢磨の突然の話に朱莉は息を飲んだ。(知らなかった……九条さんがそんな風に思っていてくれていたなんて……)「朱莉さんとのことで帰りの飛行機の中で翔と口論になって、社に帰ってからも険悪な状態で業務にも支障が出てしまったんだ。翔に言われたんだよ。お前はあまりにも私情を挟みすぎているって……」琢磨はそこでカクテルを煽るように飲むと、グラスを置いて続けた。「それで言われた。『もうお前とは一緒に仕事は出来ない、秘書をやめてくれ』って。だから俺は、それなら会社も辞めると言ったら、それなら二度と朱莉さんと連絡を取るなと言われたんだ。着信拒否にしろって命令されたしね」「そんなことがあったんですか?」「ああ。でも最後にやはり約束を破ってでも朱莉さんには連絡を入れるべきだった。だけど、それも後の祭りだ。俺が朱莉さんとの連絡に使用していたのは会社名義のスマホだったんだ。そこにしか朱莉さんの連絡先を入れていなかった。だから返却した後は連絡を取る手段が無かったんだ。我ながら抜けていたよ。まさか自分があの会社を辞めることになるとは一度も考えてもいなかったからね」自嘲気味に言う琢磨。「それで、以前からヘッドハントされていた会社に就職したんだ。好待遇で迎えると言われていたからね。でもまさかそのポストが社長だったとは思いもしなかった。一
琢磨と朱莉は50Fにある多国籍レストランに来ていた。美しい夜景が見えるように大きなガラス窓に対面した形でテーブルに座る。「すごい……こんなお店来るの初めてです」朱莉はホウッとため息をつきながら、窓から見える美しい夜景にすっかり目を奪われていた。琢磨はそんな朱莉の横顔を笑みを浮かべて見つめる。(良かった……朱莉さんが喜んでくれて……)久しぶりに会う朱莉は雰囲気も変わり、より一層美しくなっていた。(ひょっとして沖縄で何かあったのだろうか……?)朱莉のことをじっと見つめていると、突然朱莉が振り向いた。「九条さん、何だか雰囲気が変わりましたよね。以前より顔つきも精悍になったようですし」「ああ、そうかもね。入社してすぐに社長に就任したんだ。まだ27歳なのに。当然以前からいた社員達の中にはそのことを良く思わず、反発する人間も大勢いる。だから舐められないように身体を鍛えているからかもね」その言葉を聞き、琢磨がかなり苦労している様子が分かる。「身体を壊せば元も子もありませんからお休みの日はしっかり休んで下さいね?」朱莉は心配そうな表情で琢磨に声をかけた。「ありがとう、朱莉さん。でもそういう朱莉さんも何だか雰囲気が変わったね」「そうでしょうか?」「うん……何と言うか……その……以前よりも綺麗になった」朱莉に告げた後、琢磨は素直な自分の気持ちを伝えてしまったことに我ながら驚いてしまった。朱莉は琢磨の言葉に顔を赤くした。「き、綺麗になったなんて……そんな……」「ひょっとして沖縄で何かあった?」その時、丁度2人の前に料理が運ばれて来た。あらかじめ琢磨が指定していたセットメニューであった。次々と並べられていく料理に朱莉は目を見張った。あっと言う間にテーブルには様々な料理が揃った。フレンチからイタリアン、和風……他種多少な料理が美しく盛り付けられている。人の前にはシャンパンが置かれ、店員が下がると琢磨が尋ねた。「久しぶりの再会に乾杯しようか?」「そうですね」2人でグラスを持つと、互いにグラスを鳴らして琢磨はシャンパンを口にするのを見て朱莉もシャンパンを飲んだ。朱莉がグラスを置くのを見ながら琢磨は尋ねた。「朱莉さんは少しは飲めるようになったのかな?」「はい、そうですね。沖縄ではオリオンビールを良く飲んでいました」その言葉があまりに以外で琢磨
東京ミッドタウン1階、外苑東通りにある大きなオブジェ前に19時。琢磨が指定して来た場所だ。一緒に食事でもしようと誘われた朱莉は迷うことなくOKの返事をした。琢磨にはそれこそ尋ねたいことが山ほどあったからだ。秘書を辞めたのは仕方が無いとしても、何故突然連絡が取れなくなったのか。何故テレビの前で鳴海商事に喧嘩を売るような言葉を言ったのか……等々。(大丈夫……九条さんは京極さんとは違う。きっと私が知りたかったこと全て教えてくれるはず……!) 朱莉は鏡の前に立った。いつもとは違う、大人びたメイク。一度も付けたことの無かったイヤリングにお揃いのネックレス。普段はあまり着ない余所行きの秋用の上品な色合いのワンピースと少しだけヒールのある紺色のパンプス。「ちょっと気合が入っているかもしれないけれど……これはある意味私にとっての武装。九条さんはそんな人じゃないと思うけど……話をはぐらかされない為にも自分をしっかり持たないと……」朱莉は鏡の前で呟いた。そしてショルダーバックを下げると待ち合わせ場所へ向かった——**** 18時45分――スーツ姿の琢磨は既に待ち合わせ場所のオブジェの前に来ていた。(少し早く来すぎてしまったか……)久しぶりに朱莉に会えるのが嬉しくて、つい待ち合わせ時間よりも早く来てしまったのである。腕時計を見ていると、突然声をかけられた。「あの……すみません……」顔を上げると、そこには3人の見知らぬ若い女性の姿があった。「何か御用ですか?」すると女性達の顔がパッと赤くなり、1人が話始めた。「あ、あの……実はお店を探してるんですけど場所が分からなくて……一緒に探していただけませんか?」その女性は上目遣いで媚を売るような目で琢磨を見上げた。(何だ、またか……)琢磨は心の中で溜息をつく。「すみません。申し訳ありませんが、今彼女と待ち合わせしている最中なんです。悪いですが、自分達で探して下さい」すると女性達が一斉にショックを受けた顔つきになり、コソコソとその場を立ち去って行った。「全く面倒臭い……」溜息をついて下を向くと、前方から声をかけられた。「九条さん……ですか?」見上げると目の前に朱莉がいた。薄化粧に肩まで伸びた少し茶色がかったウェーブの髪。ワンピースに身を包んだ朱莉は最後に別れた時よりも一段と美しくなっている。その
17時――「ふう~疲れた……」朱莉は億ションへ帰って来ると、部屋の窓を開けて換気をするとソファの上に座った。「今日は疲れちゃったからご飯作るのはやめよう。東京へ戻って来た記念に思いきってどこかに食事に行ってみようかな……?」朱莉の本心を言えば、航に連絡を入れて2人で何処かで待ち合わせをしたかった。一緒にお店に入り、そこでお土産のTシャツを手渡して、食事が出来ればと願っていた。だが……突然航は東京へ戻り、そこからは一切連絡が来なくなってしまったのだ。航の性格からみて、それはとても考えられないことだった。(航君は、ひょっとすると京極さんに私との連絡を絶つように言われていたのかもしれない……)何故京極がそこまでのことをするのか、朱莉には見当がつかなかった。航に会えないことを思うと悲しい気持ちが込み上げてくる。それだけ朱莉にとって、航は大きな存在だったのだ。だが朱莉は航にも京極にも理由を尋ねる勇気が無かった。暫くソファに寄りかかり、ぼ~っと天井を見上げていると突然朱莉の個人用スマホの電話が鳴り始めた。(まさか、京極さん!?)慌ててスマホを取り出すと、それは母からの電話だった。「はい、もしもし」『ああ、朱莉。今日は私から電話を入れてみようかと思ったのだけど……今忙しいの?』受話器からは意外と元気そうな母の声が聞こえてきた。「ううん、そんな事無いよ。あ、そうだお母さん。実は今まで黙っていたけど私今日東京に戻って来たんだよ?」『え!? そうだったの!? びっくりだわ……。どうして今まで今日東京へ戻ることを教えてくれなかったの?』母はやはり朱莉が考えていたのと同じ事を尋ねてきた。「うん、ごめんなさい。はっきりいつ頃東京へ戻るか日程が決まっていなかったから言えなかったの。それでね、明日お見舞いに行こうと思ってるの。沖縄で綺麗な琉球ガラスの花瓶を買ってきたから、明日持ってお見舞いに行くね?」『ありがとう、朱莉。フフフ……久しぶりに貴女に会えると思うと嬉しいわ』「うん。お母さん。私も楽しみにしてるね。それじゃまた明日」朱莉は電話を切ると、部屋が肌寒くなっていたことに気づいて部屋の窓を閉めた。いつの間にか部屋の中はすっかり薄暗くなっていたので、遮光カーテンを閉めると部屋の電気をつけた。 信じられないくらいの広すぎる部屋。今まではこの部屋で
Comments